Q&A・・・Part❷ 無限って何?

目次

ふたたび、だいちゃんからの質問

ーまんじ・卍は無限のシンボルだと言ってましたが、無限ってなに?ー

仏陀が“ヘビ”の住む不死の惑星で、四十九日のあいだ、「最高の知恵」の奥犠を伝授されたことについては前にお話しました。そのなかで最も重要なポイントというのはまず“不死”について、それ から “空”というものです。

不死については、仏陀は彼の地球への帰還後、「わたしはアムリタ・不死を得た」と弟子たちに伝えたのはよく知られている話です。なぜ彼は「不死を得た」などと言ったのかは、これもすでにご案内のとおりです(拙著『アムリタへの道』)。

つまり、仏陀が言ったこのフレーズを別の言いかたをすると、それは死後「不死を約束された」ということです。もっと具体的にいうと、仏陀個人の設計図である細胞内の遺伝子・DNAは“ヘビ”によって採取されたということです。

これはどういう事を意味するのかというと、つまりそれは仏陀の死後、あらかじめ採っておいた彼のDNAを基にエロヒムの不死の惑星で彼自身が再生されるということなのです。

dna1これは今話題のクローンニングですね、仏陀のクローンです。地球でも、技術的には個人の体細胞から肉体のクローンを創る段階までは出来ています。

あとは次のステップ、個体の成長過程を短時間に促進させ、個人のソフト面の移植、つまり記憶・知識等々そのひとのニューロンのデータを、新しく再生された肉体に移し変える段階にいくことになります。

このダウンロードの研究も現在進められています。ですから、たとえば若いころに保存しておいた細胞が一個あれば、老いや事故などで新しい肉体が必要になった場合、将来この技術が応用されることになるでしょう。

これは何も夢の中の話ではないわけで、近い将来は当然のように行なわれる事なのです。このようにして再生された肉体に順次獲得した知識・記憶が蓄積され、これが無限に続いていく。簡単に言うと、こうして不死が現実のものになるというわけです。

「はたして、我々はどこから来て、どこへ行くのだろうか?」と聞かれたなら、即座に私は「それは“無限”」と答えるでしょう。我々は無限からやってきて、そして無限に行くのです。

無限、このフレーズを“空”という言葉に置き換えることもできるでしょう。冒頭でいった仏陀が“ヘビ”に教わった「色即是空」の“空”のことです。これについてエロヒムはこのように言っています

「地球の生命すべてはエロヒムの科学技術が生み出したものであること、また地球の人類を創ったエロヒムじたいもまた別の人々によって科学的に創造されたことを我々は知らなければなりません。

もちろん地球の科学者たちも将来、他の惑星に行って自分に似た生命を創ることになるわけです。そしてある者が滅びれば、ある者が交代する。これらの生命創造が始まりも無く続いてきたし、またこれからもこの果てしない宇宙のなかで終わりも無く続いていく・・・・」。

この果てしの無い知的生命体による生命創造の循環、宇宙の変わらない真実、この無限の法則を“空”といいます。

universe引き続き、“ヘビ”も仏陀に語ったであろう“無限なる宇宙”というものの風景を観てみましょう。「私たちは、知性を備え、有機的な体をもち、しかも非常に小さな世界に住む生物を発見しました。

彼らが私たちと同じ程度に進歩した生物で、私たちに匹敵する存在であることはまず間違いありません。ご承知のように、これはすでに証明ずみのことです。

それからさらに私たちは、恒星や惑星がすべて、あるひとつの巨大な生物を構成する微粒子であることも発見しました。きっとこの巨大な生物は、ほかの星の群れを好奇な目で静かに眺めているのです。

あらゆるものは、他のあらゆるものに含まれていることを理解する必要があります。いまこの瞬間にも、たとえばあなたの腕をつくっている無数の細胞の中で、神や霊魂の存在を信じる世界や信じない世界が、無数に生まれ無数に死んでいるのです。

その一方、1000年という時の流れも、太陽が一個の微粒子にすぎないような巨大な生物にとっては、たった一歩を踏み出す時間でしかないのです。すなわち、時間というものは、質量、あるいはもっと適切な言葉でいえば、生命形態のレベルに反比例しています。

それにもかかわらず、宇宙に存在するすべてのものは生命を持っていて、しかも無限小と無限大の双方と調和を保っているのです。

tikyuu今後も、巨大な存在を理解し、それと再び接触をもつために、あなたがたは研究を続け、進歩し続けるでしょう。私たちはこの巨大な存在の一部であり、その微粒子に寄生しています。

この微粒子が惑星や恒星なのです。実際、知性をもつ無限に小さい生物が、彼らにとっては惑星であり、恒星である微粒子の上で生活し、私たちと同じような疑問を抱いていることを、私たちは発見しました。

人間は、惑星や恒星を微粒子とする巨大な存在の“病気”なのです。そしてこの存在もまた、他の生物の寄生物なのです。極小と極大、いずれの方向にも無限なのです。」(ラエル著『真実を告げる書』から抜粋)

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まさに色即是空(目にみえる世界もみえない世界も同じ)の世界ですね。“空”をひとくちに言うと「無限の時間と空間のなかでの、生命創造の永遠の循環」といったようなニュアンスにでもなるでしょうか。

そしてこの空のなかで起こっている生命創造に関しては遺伝子・DNAをキーワードにして理解していただくことにして、それでは“空”のエッセンスとして、その最も重要な特質である「時間と空間の無限性」・・

その“無限”とはいったいどのようなものなのか、もう少し観てみましょう。今度は、『般若心経』の中で仏陀は弟子のシャーリプトラに語っています。

oringu「この世界は、始めも無ければ終わりも無く、また中心も無い。聖なるものでも無く、汚れているものでも無く、また何も失なわれるものでも無く、増えるということも無い。

それゆえに“無限”においては物質的現象も無く、感覚も無く、イマジネーションも無く、意志も自己意識も無い。眼も無く、耳も無く、鼻も無く、舌も無く、身体も無く、

心も無く、形も無く、声も無く、香りも無く、味も無く、触れることも無く、心の対象も無い。眼の領域から意識の領域まで、すべては無い。“無限”であるがゆえに、知恵も無く、無知であるということも無い。

知恵の無きものでも無く、無知の無きものでも無い。老いも無く、死も無く、老いと死の無きものでも無い。苦も無く、苦の原因も無く、苦を制することも無く、苦を制する道も無い。知ることも無く、得ることも無い。得ることが無きゆえに・・・・」。

我々がもし無限について、これを書き表そうと思えば、無限の言葉、無限の表現、そして何よりも無限の鉛筆と用紙が必要になります。無限とはそういうものなのです。

仏陀はこの場面において、無限のニュアンスを、無限のその性格、その状態、そのあり方を「諸法は空相(空の特質)にして」、あるいは「これゆえに空のなか(空の立場)には」といったフレーズで説いていますが、

彼はここでありとあらゆる言葉を駆使しつつ、しかも芸術的に無限という真実にアプローチしていきます。繰り返される“無”の響きはシンプルな音の深みを感じさせ、詩的でさえあります。

その感動を誘う手だては、聞き手であるシャーリプトラのイマジネーションに力を与え、彼を“無限”という瞑想空間へと導くには十分です。さて、しめくくりにエロヒムがこのように語っているので観てみましょう。

dna2「無限はあまねく存在し、我々がそれを構成し、またそれが我々を構成する。我々は永遠の物質で出来ているゆえに、我々は“無限の一部”なのである。

しかし、無限は決して我々の上にいかなる威力を持つものでもないし、また直接我々を見守っているわけでもない。我々の行為や決断には“無限”に無関心であるし、何ら意識しているわけではないのである。

ゆえに我々の生命も、人類全体の生命も、“無限”に対しては何の意味も持たない。たとえ人類が滅亡しても、また黄金文明をむかえようと、時間と空間の“無限”のなかでは何の変化もない」(『真実を告げる書』)。

「“無限”に対しては、生きることすら何の意味もない」と言い切る、この厳然としたリアリティ。エロヒムによって実証された宇宙の完璧無比な表現は、我々をごくありふれた一片の塵・チリに帰してしまいます。

たしかに“無限”の立場からみると、生命の創造、不死のテクノロジー、そしてすべての生命の表現、これらのプロセスは純粋に物質的現象であって、しかも生命の基となる遺伝子・DNAさえも無限の物質によって成りたっているわけです。

つまり、そのような意味において我々は“無限の一部”として存在しているのです。どうですか、“無限の一部”というのはうまい表現でしょう?。しかし、我々は“無限の一部”として生きてはいますが、決して“無限”ではないのです ?!。

なぜなら、“無限”そのものは生きているというわけではなく、物質的現象といえるものでもなく、ましてそのような“無限”なるものが我々に対し、親しみという感情をもってこちらに近づいてくるという性質のものではないからです。

me確かに、“無限”に対しては生きることは全く意味がないし、すべては何の役にも立たないものでしょう。ですから“無限”の立場から観ると、我々が生きているということは、言葉を借りるならひとつの方便といえるでしょう。

これはまたうまい言葉があったものです。この“方便”、サンスクリット語でウパーヤ、「限りなく真実に近づく」という意味です。

たとえば、絶対不変であって、完全であるものが“真実”であるとするなら、“無限こそが真実”であるといえるのではないでしょうか。なぜなら、“無限”はどこにでも遍く存在しますし、永遠に変わらず常に無限だからです。

それゆえに、方便という手だてを使うことによって、我々のほうから真実に近づこうと思うのであれば、それは限りなく“無限”という真実に近づくことができるのではないでしょうか。

何によって?それは“知恵”だと言うならばどうでしょう。大いなるマジック、仏陀の言う「ハンニャハラミッタ・偉大なる知恵」という方便によって、エロヒムが人間の遺伝子に付与した知的能力・科学的才能によってです。

なぜなら、この大いなる知恵を用いて、創造者たちは不死つまり限りなく無限に生きているからです。ですから、彼らの住む世界を「不死の惑星」と言い、仏陀は彼らの「科学が人間に奉仕する黄金文明」を“悟りの境地と”言ったわけです。

そして地球の科学者たちもアムリタ・不死の“種”を見つけたいま、我々の歩みも“無限という真実”に限りなく近づいていると言っても良いのではないでしょうか。

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無限からの贈り物 ― 空の知恵

「無限の時間と空間のなかでの生命創造の循環」、“空”は始めも終わりもない永遠不滅の真理なのです。確かにこの“究極の科学の定義”を理解するには未だ多少の困難さはあるかもしれません。

それにもかかわらず、このような“空”という摩訶不思議でとても大きな母体から導きだした“方便”を、我々の人生や日々の生活に取り入れて、幸福に生きるための、いわば「空の知恵」を活かし現在に伝えてきたというのは仏教の大きな功績ではないかと思います。

仏教は“ヘビ”から仏陀に渡されたメッセージの宝庫です。たとえば、“空”のひとつの特質である「時間の無限性」を背景においた「無常」といったコンセプトがあります。無常とは、時間は無限であるがゆえに、あらゆるものの始まりというものは無いし、また終わりも無いということです。

この世に存在するものはすべて変化し、相互依存し、他のものに条件づけられています。ですから最初の原因をみつけることは不可能です。こういったことから、宇宙が生まれた最初の原因はビッグバンでも無いし、この世界を最初に創造したのは神でも無いということが解かるでしょう。

kuuまた、「無我」というコンセプトは“空”のもうひとつの特質である「空間の無限性」がベースになっています。

空間は無限であるがゆえに、宇宙の中心となるようなものは無いし、ひいては個人的な主体である「我・わたし」という実体も無いということです。

ですから、その「我」の中心となる永遠不滅なる霊魂のようなものの居場所は無いわけです。そこで、それひとつで完結している実体そのような固定された実体が無いゆえに、私のモノというものは一切無いということになります。

すべては、物質とエネルギーでできているもの同士の『無限との交換』によって成りたっています。私・自己とよばれる遺伝子を構成している物質さえも“その交換”によっているわけで、

ひいては目に見える物質から目に見えない思考や意識にいたるまで、それは私のモノとか誰かのモノという発想はない、つまり無我であるゆえに無所有というわけです。それと「縁起」の法則というものがあります。

縁起とは、まずひとつに、宇宙のあり方それ自体は独立し完結しているものはなく、すべては他のものとの関係によって成りたっているということ。そしてふたつめに、これが始まりでこれが終わりというものでもなく、唯々「原因と結果が永遠に続いていく」というものです。

これは「風がふけば桶屋がもうかる」といった喩えもできますが、何度も言いました“空”の「生命創造の循環」といったものは、まさに縁起そのものといえるでしょう。

仏教のいう「無常・無我・縁起」は、仏陀が“ヘビ“から教わった空”がベースになっていると言いましたが、実際に我々が日常使っている知恵もいくつかご紹介しましょう。

“空”のひとつの側面である「時間と空間の無限性」という立場からみると、そこには境界が無いといえるでしょう。境界が無いゆえに一切の区別や差別が無い。ここで、この“無限”の特質から導きだされた国境も無い、人種差別も無いといった考え方が日常にとり込まれ、これが博愛と世界平和の大切な道しるべになっています。

さて、“無限”は境界も差別も無いという性格上、まったく自由であるといえます。自由というのは“無限”から生まれた最高の知恵といえるでしょう。我々はこれを何よりもまず第一の基準にすべきなのです。

この自由であるということから、あらゆる可能性が導きだせます。自由な空間は、即遊びの空間にもなります。この遊びの空間から「可能性の快楽」ともいうべき笑い・ユーモアと「可能性の思考」・ポジティブシンキングが生まれ、これも日常に取りこまれて、我々がリラックスした人生をおくるためにも大いに貢献するわけです。

tori2自由なものはすべて美しいものです。世界中の大空を、誰も入らない森の中を、どこへでも飛んでいくことができる鳥はほんとうに美しい。

たったひとつの所有もないゆえに、自由であるがゆえに美しい。“無限”とは時間も空間も無制限であるとも言えるでしょう。

無制限つまり制限がないので、何も所有する必要がないのですね。つまり無所有というわけです。これを逆説的に言うと、「無所有はすべてを所有していることと同じ」といったようにもなるでしょう。

彼はすべてを持たないがゆえに、この世のすべてを所有している。広い空も樹も太陽もすべては彼のためにあるようなものです。「この世のすべては無所有の王のもの」とはよく言ったものです。

それにしても、我々にとって空を自由自在に飛ぶためには必要の無い持ちものが多すぎるようですね。財産、名誉、プライド、知識、家庭、国家、法、正義、真実、などなど。

hasu昔、仏陀の弟子になるための条件として、ひとつの約束ごとがありました。それは、三輪空寂(さんりんくうじゃく)といって、人になされるすべての行為は匿名によってするということです。

つまり、“誰が”、“誰に”、“何か(プレゼント、布施、援助)をする”場合に、この三点・三つの輪が“空”であるということ、これらを所有しない、こだわらないということです。

たとえば、あなたが誰かを愛する時、あなたではなくて、他の誰かによって愛され、あなたの愛する人が幸福であれば、それは素晴らしい、愛は誰かからの匿名のプレゼントになるでしょう。

つまりこれはあなたからでは無くても、無限からのプレゼントといえるもので、愛される人のよろこびはあなたの最高のよろこびにもなり得るわけです。

他の人を尊重し、所有しないことによって、幸福をひたすら願う快楽によって、“無限”という扉が開いてあなたと他のものすべてがひとつ。“無限の一部”であるあなたと、“無限の一部”である他の人とはみごとにひとつなのです。

こんな話があります。ある老人が、ひとりの男がこまっていたので助けたそうです。九死に一生を得た男は「ほんとうに助かりました。一時はどうなるかと思いました。

あなたに何かお礼がしたいのですが、何でも言ってください」。老人は言いました。

「あんたもまったく大げさなお人だよ。たまたま私の左腕がかゆくて、そのかゆいところを右腕がかいたとしても、左腕は右腕にお礼など言わないし、右腕も左腕に自慢したことなんかないがねぇ。

まあ、しかしあんたがそこまで言うなら、ひとつ頼みがある。いつかあんたが同じ場面に出会ったら、その人に同じようにしてあげておくれ・・・・」

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