色即是空的こころ・・❿

・・最初は、誰でも偉大な哲学者になるんですね。仏教ならば「八正道」の①正見=正しい考え方の門から入って、無常・無我・空の知恵を学ぶし、ラエリズムにおいても新しい価値観や無限のアレコレを学んで、それらが身に付くわけだからね。

しかし、そんな大学者にも相変わらず悩みはあるし、嫉妬や落ち込むこともある。また怒りの感情が爆発したりもするんですね。

そういった云わば心と人格の未熟さというものを余計に浮かび上がらせて、我々の心のとても深い場所に入っていく入り口を照らてくれるのも“意識”なわけです。哲学の原語;フィロソフィア「知恵を愛す」とはよく言ったものです。

そこで「意識」といった“万能の利器”があることに気づいて、その知恵を借りながらヒトは自分の心の探検におもむいていくことになるわけです。こうして、『意識』という第二の門に入っていくわけなんですね。

そこで、我々の心の痛み・苦しみというのはどこから来るのかというと、それもやはり体の痛み・苦しみと同じで、云わばそれは今まで知らずに体内に溜め込んだ“毒”、三毒(貪欲・怒り・無知)の作用だというわけです。

それらを浄化しない限り、また同じことで苦しまなければならない・・。そして、それらはすでに条件づけされているので、いつも「反応」といったカタチで表面に出てくる。他人に足を踏まれて、怒っちゃいけないのはよく解かる・・。

しかし気が付けばもうカーッと頭にきているわけです。自分ではそれが解かってはいるんだけれども、結局は同じルーティーンにはまってしまう。『解かっちゃいるけど止められない・・』といったアンバイ・・。

そこで、この病の元凶である心のなかにある毒を外に出して、浄化しなければならないということになるわけです。毒を排出しつつ 今まで条件反射的にしてきた悪い反応をしないようにしていく・・。

まぁ、一種の心の断食療法みたいなモノですね。これが仏教的な「非プログラミング」のひとつのやり方なわけです。同じ反応をすると毒はたまる一方だから、これ以上は体内に毒を入れない、つまり「反応しない」ということが、この心の断食の大切なポイントになるわけです。

反応しないとはどういったことなのかというと、誰かに足を踏まれたら『踏まれた・・』でストップ!そこで痛みを感じたら、『痛み・・』でストップ!ということです。

あたかも他人の足が踏まれるのを見ているようにね。つまり、ここで万能の利器=意識のご登場ってわけですよ。『痛いなぁ~、もう・・』というんじゃなくてね。足を踏まれたら、ただ踏まれた事実を観る・・。

痛みを感じたら、ただ痛みという感覚をよく観てみる・・ということ。「踏まれて痛い」と「痛いから怒る」これは一緒ではないでしょ。よく観察して観ると、これらは別々な出来事を自分で勝手につなげて、怒っているだけなんですね。

ホントならば、足を踏まれて痛かったら『どうして私の足を踏んだんですか?』と、まずは足を踏んだヒトに聞いてからでしょ。そして、例えばその人が『あなたが憎たらしいから踏んだのよ!』と答えた・・。

その後で、『それなら私は怒りましょう・・』と言って怒るのであるなら、まだ解かるんだけれども(笑)。そういった手続きも無しに、勝手に足を踏まれてただ怒るのも、おかしなハナシでしょ?間違って踏んだのかもしれないわけだからね。

つまり、無意識に反応しているだけ・・反射的に反応して・・それに怒りという感情をつなげて表現しているだけなんですね。そうではなくて、この一連の流れをクールに客観的に観て、“反応”ではなくて、正しい“行動”をしていこうといったわけです。

まぁ、反応ってモノは瞬時に起こるわけだしね。怒りのエネルギーは強力なんだけれども、この「心の断食」といった訓練がひとつの仏教的なノウハウになっているわけです・・。

まぁ確かに 意識のボリュームをあげるのはイイんだけれど 観察というのは「客観的に観る」というのがとても大切なことなのね。・・この訓練では“ありのまま”に物事を客観視できるのかどうかという事が一つのポイントになってくるわけで・・

例えば子供のころに顕微鏡をのぞき込んで、小さな生物を観察しようとしたわけです。その時の心もようというのは、小さな穴から見える世界にドキドキしながらも、意識を集中させて、そこに在るモノを“ありのまま”に観て見ようとしたはずなのね。

はたしてこの生き物は、どういったような動きをするんだろうかとかね・・。とにかく、すべてをどんなモノでも見逃さずに観てやろうと、そういった意気込みだったわけ。それは、どうしてかというと『真実を知りたかったから』ということ・・。

だから、何の色メガネもかけずに、存在を“ありのまま”に観れたのではないでしょうか。確かに、「真実を知るために客観的に観る」というのが『科学的な観察』だという事になっているんだけれど、

しかしいざ自分の心をのぞいて観ようってことになると、中々こうはいかないものなんですね。偏見無しに客観的にクールに観察することが難しくなる。我々は誰でも『主観』というものがありますからね・・。

“わたし”という色のついたメガネでもって、モノゴトを観てしまうでしょ。『このほうがイイんだ・・こうあって欲しい・・』といったアンバイでね。つまり、そういった“わたし・エゴ”エネルギーが多いに働くためにね。

そこで何がともあれ、我々が観察しようとする時に、まず第一に大切なのは「真実を知ろうとするエネルギー」だということ・・。

“真実”というのは、ご案内のように「善い悪い・綺麗汚い・好き嫌い・旨いまずい・広い狭い・高い低い・・etc・・」。そういった価値基準や比較・判断を超えた“ありのまま”のすがた、存在ですからね

。つまり、「空・くう」だということ。つまり我々の心も 真実を知ろうということによって、そこでは限りなく「空・くう」に近づいているんだと思うんですね。その時は『ありのままに観ましょう』ということですからね。

心が外に完全にオープンになっている状態だから・・。『すべてを理解しましょう・受け入れましょう・・』といった心もようになっているはずなんですよ。ということは、そこで知らずに"慈悲のエネルギー”を使っているということなるのではないでしょうか。

こういったような極めて客観的なモードで、落ち着いて存在をみつめることによって、『観照』に入っていく事もできるし、そういった心境を仏教では「捨・ウペカー」とか言ったりもするんだけれども・・。

・・まぁそもそも、こういった心もようを作っているモノが御案内のその『慈悲(愛)のエネルギー』というものだと云ってもイイのではないでしょうか。

そして、真実を知りたいという気持ちというのも、やはりこの慈悲のエネルギーから来ているのではないだろうか?

・・ここで、我々は哲学の門・意識の門をくぐって、そして第三の門である“慈悲”の門に入っていくことになる・・。

ここで一句

観察と 慈悲の心で 空を観る