色即是空的こころ・・❹

・・『般若心経・はんにゃしんぎょう』という経典のなかに、“ヘビが得た知恵”というものを仏陀が弟子に説いて聞かせる場面があるのね。そのなかに、無限の様子をうまく説いているフレーズがあるわけです・・。

『・・空(くう=無限)においては 始めも無ければ 終わりも無く 聖なるものでも 汚れているものでも無く 感覚も意識も無く 心も無く 老いも死も無い・・』。

つまり、無限はあまねく存在し、しかも我々に対しては、いかなる威力を持たないし、また見守っているわけでもない・・。人類が幸福になろうが、滅亡しようが・・限りなく無関心なわけです。

それゆえ、無限(空)の立場から観ると、我々が生きることは、まったく意味が無いし、何の役にもたたないというわけです・・。そういった“無限”というモノを基準にして、我々の社会づくりをしていくわけにはいかないでしょという事・・。

・・しかし、その得体の知れない摩訶不思議なる「無限」の特質から、そのエッセンスを取り出して、我々の社会づくりや、個々の人生を幸福にするための、ひとつの“知恵”として応用してきたというのは、仏教の成功した理由の大きなポイントだと思うわけです。

・・それを『空・くうの知恵』として、ご紹介もしてきたのですが、まぁしかし、そういった知恵の数々は、元々は“ヘビ”が仏陀に伝授したものですからね。

そして、なぜ“ヘビ”はそういった何の役にも立たないのではないかと思えるような「無限」の性質からエッセンスを抽出して、自らの哲学として、これらを使うことが出来たのかというと、それは無限というものを徹底的に『観察』したからだと云えるのではないだろうかね?

“観察”しなければ、何も観えてこないわけだから・・。例えば、そういった観察は我々にもできないわけではないのね。仏教では「無常」という処の“変化”なんていうものはそうでしょ。

・・人間も、あらゆる現象も、一秒たりとも同じではない・・常に変化しているわけで、これなんかは我々でも、周りにある花鳥風月や色んなモノをちょっと落ち着いて注目すると観察できるものでしょ。

観察によって、変化という現象は、無限の“ありのまま”の姿だとよく解かる・・。そこから、そんな変化するものに執着しても仕方ないといった実感から、ヒト・物に拘らない、無執着といった知恵も出てくる・・。

それと、無限ゆえに「自由」だということ・・。この自由といったコンセプトは、一番の「空の知恵」ではないだろうか?自由ゆえに境界線も無いし、所有も無い・・。それゆえ、国境が無いといった見方ができるし、自他との差別が無いということで、無所有とか平等思想とかも生まれてくる・・。

“可能性の思考”と呼ぶ「ポジティブシンキング」だってそうでしょ。考える基準にしても、あれもこれも、何にしても、まずは観察=意識から始まったということ・・。

自分の体も心も、自然も、あらゆる存在も現象も、それらを観察するということが大切なんだということ・・。・・我々が自分の“こころ”を観察するのは、とても大切なことなんですね。

心と身体はお互いに微妙に結びつきながら、いつも反応しているわけで、我々が手っ取り早く観察できるのは、心の部分の「感情」と体の部分の「感覚」なのね。コレのつながりなんかは、チョッと落ち着いて観てみると、とてもおもしろい観察の対象になるわけです。

この感情と感覚は“反応”といったかたちで認識できるでしょ。まぁ、我々の日常は無数の反応の連続なわけで、『生きているというのは、反応しているからだ・・』と言ってもいいくらいでね。

例えば、脳が空腹感の信号に反応しないとどうしようもない。近くにおにぎりがあって、それに反応する・・食べると消化器が反応する・・食べ物の種類に反応し、それに見合った消化液酵素が出てくる・・。

・・栄養が吸収され、残ったものは反応によって排便される・・etc・・。そういったように、別に意識しないでも我々にプログラミングされているシステムによって、勝手に処理されているのも多くあるんだろうけれども、我々が観察して、その反応の仕方を変えていけるものもあるというわけですね。

例えば、今まで生きてきたなかでの習慣や教育によって出来上がったものなんかが、そういったもので所謂“クセ”、それも悪いクセといった反応もあるでしょ? まぁ、「感覚によって感情が反応」するっていうパターンは、日常で限りなく我々が経験しているわけで・・

よく使う例えでは・・『満員電車で足を踏まれる→痛み(感覚)→嫌悪(感情)→何だ、このヤロー(感情が拡大)・・』・・こういった感覚と感情のつながりは、ずっと何十年も使っているから、何の抵抗も無く自然に出てくる。

本人もこういった反応を別に変えようと思わなければ、一生同じ反応をしていくことになるだろうし、こういった反応の仕方が自分で気に入っていれば、益々この反応が強化されるだけなのね。

『嫌!・・』といった小さな火種が、『怒り』といったボヤを起こし、暴力・戦争といった大火事に発展していくのは、もうすでに御案内のとおり・・。

そういった悪い習慣を、悪いと思わずに使っている人間にとっては、例えば これもよく使う例えなんだけれど、イエスが頬を殴られたのに、怒るといったことをしないで、笑ってもう片方の頬を相手に向け、『よかったらもう一発どうぞ・・』といったように・・

・・そういったウイットと洒落が混じった色あいの、落ち着いた行動というものは、とても理解できないのではないかと思いますよ。しかし、イエスの“反応”をまったく無視したようなこの一連の態度は、結局は自分の心と体の「観察」・・

・・感情と感覚とのリンクについての「観察」・・。そういったものへの落ち着いた、客観的な「観察」といったものが基本にあるからなのね。

無意識に、闇雲に出てくる怒りの感情や、貪欲やエゴカラーの反応路線を改善して、慈悲・愛とかユーモアで色付けされたものは、見ているだけでも絵になる、美しい行為・行動ですよね・・。

つづく