色即是空的こころ・・意識・・❶

・・観照と云えば、やはり「意識の道具」の使い方が大切になるわけです。まぁ、道具というわけですから、意識的に“意識”を使うといったことになるわけですが、実際に我々は日常で「意識を実感する」ということはあまり無いんですね。

例えば、歩く時にでも『はい、右足をあげて・・前に出して・・今度は左足をあげて・・前に出して・・』といったようには歩きませんからね。何をするにしても、ほとんどは体のシステムが自動でやってくれるわけですから・・。

つまり意識のボリュームをあげさげするツマミが下がりっぱなしのまま無意識に反応しているといった状態がほとんどではないでしょうか。ですから、どこの瞑想センターでも座禅の道場でも同じで、この意識を実感させるために、最初から色々と訓練させるわけなんですね。

息を吸うのも吐くのも意識・・歩くのでも意識・・食事の時も意識・・何でもかんでも意識・・意識・・といったアンバイで、目いっぱい意識のツマミをあげて物事に対処していくように教えるわけです。

そして、この訓練というものは瞑想の時だけではないんですね。日常のあらゆる場面で、意識の網を張り巡らして、意識主導でもって考え行動する・・そういった“クセ”を付けていく。

こういった仏教的な訓練のやり方というのも、そもそも“ヘビ”が昔の人間たちの意識の筋肉を強化するために教えたモノ(意識すること)が現在の仏教的な技法の根っこに在ると思いますね。

その痕跡が色んな変遷を経ながらカタチを変えつつも、今の禅とかヴィパサナーなんかの意識の訓練法として伝えられてきているのではないかと思います。

そこで、そういった中から実際に自分が試して効果があったモノ、試して良さそうなモノの紹介を含めて、過去のコメントのなかにそういったモノが有りましたので、そこからピックアップして御案内したいと思います。

・・略・・“ヘビ”が仏陀に教えた唯一の技法は『意識の使い方』じゃないでしょうか。「瞑想は意識から始まり意識で終わる」といったフレーズがあるけれど、瞑想だけではなく日常生活でもしっかり意識してやったほうが“うまくいく”のは解かりきった話でしょうからね・・。

道路を渡る時でもボヤッとしてたら車にひかれますからね。「意識」という道具ほどの万能の利器はないと思いますよ。料理で使う味噌・醤油でもかなわないくらいにね、何をするにも意識・・意識・・ってぐあいに・・。

仏教での一番の特色は、“こころ”を作るための道具として意識をうまく使っているところだと思います。何度も言うようですが、人間を幸福にするには、幸福な心をつくること・・。その心を作るのは『意識』といったエネルギー・・そういったコンセプトでしょ。

心にとって何が善いのか、悪いのかを判別するのも意識。愛=慈悲の心をつくるのも意識。何もかもね、こういったアンバイ・・。まず「気づく」といったことで意識の扉が開き、それから一歩進んで「観察」する。また一歩進んで「洞察」する。そうやっていって、たくさんの知恵を理解していくといったわけですね。

まぁ、意識はスーパーマンみたいなことを言いましたが、意識するからこそ、その反対の言葉として使っている無意識といったモノに出会えるってこともあるでしょ。無意識でやっていると、自分が無意識のなかにいる事さえわからない。

暗闇の中に居るのが当たり前だと思っていたら、逆に暗闇ってものがわからない・・このパラドックス。我々は光というものを知っているからこそ、暗闇ってモノもわかるでしょ。だから、意識しなければ無意識というのもわからないということです。

まぁ、でも実際は意識と無意識のあいだに河があって向こう岸が意識ってこともないでしょ。これはラジオのチャンネルみたいなもので、少しボリュウムをあげればよく聞こえるわけで、ツマミを上にあげればイイだけの話ですからね。

・・おおよそ無意識というのは、反応として出てくるでしょ。例えば、鏡に写る自分ってモノを見る時というのは、だいたい綺麗だとかブスだとか、シワが寄ってひどいモノだとかね・・まぁ、主観的にみるでしょ。

つまり、鏡に写っているモノに対して潜在的な価値観が自然に反応しているわけですよ。実はこの反応というモノが、無意識というものに引き合わせてくれるんですね。

つまり、鏡で単なる物・ものだけでなく、その物にくっ付いているモノ=今の自分の心に在る部分= モノの見方・考え方=主観もみることができるというわけです。「反応を観る」ということによってね 。

反応には自分の心のすべてが入っているわけだから・・。それに反応というモノは、意識して起こるものではないでしょ・・アッという間に、無意識にやってくるわけですから。

「主観」というのも無意識に出てくるし、感情も無意識に出てくる。その些細な反応=無意識に出てくるものをできる限り観るわけですよ。ポイントは、そういったものをどのくらい観れるのかといった処ですよね。

まぁでも、これも訓練ですからね・・トライ&エラー、やってみる・・。鏡に写ったものを“あるがまま”にみるのがベスト・・つまり、出てきたそのものをなるべく客観的にね・・観察するわけだから。

だれでも主観はあるし、固定観念というものもあるんだけれども、そんなことを気にせずに、自分の闇の部分を何でも見てやりましょうと・・そういったアンバイで観察する。

・・観察=客観的に観るというのが、禅なんかでは“あるがまま”に観るというわけです。これが理想的なやり方。あるがままの観察で一番のポイントは、「変化」というものを観る。「無常観」といいますが、これをやるわけです。

しかし、“あるがまま=変化する”というのは当たり前だと思っていても、ホントはなかなかその変化を認めたくないと思っているのも、我々の心でしょ。欲望も主観もありますからね。

心のどこか=無意識的に、変化することに納得がいかないわけですよ。それでも客観的に観る訓練をしていくと、変化ってものが当たり前ってことになるんですね、不思議なことに。コレも意識のマジック・・。

変化を受け入れるってことが出来るようになると、物事を洞察=先のこと・見えない処までも理解できるようになる。つまり、客観性=普遍性=無限性といった広がりが観えて来るわけです。

個人的な価値観とか主観といった狭い世界を破って抜けていくわけですからね。意識のエネルギーってものはスゴイもので、受け入れる・理解するパワーが格段に付いてきますからね。

受け入れる・理解するエネルギーのことを仏教では慈悲(喜捨)と云うんですね。まぁ、どれだけ受け入れるのかと言うのは、どれだけ慈悲のエネルギーが心のなかに出来てきたのかということにもなるわけです。

つづく