色即是空的こころ・・⓬

・・ご案内のように、最近の科学では「意識」の定義を、『“いま”というものの認識・・』といったニュアンスでとらえているんだけれども・・。

無限というのは金太郎アメと一緒で、どこを切っても‟いま”が出てくる。そこで、昔から人々はそこの扉から無限に入ってくるんです、意識を使ってですね・・。

その一瞬も止まることなく、無限に変化し続ける“いま”をまさに実感し、それを味わい、そこから喜び・幸福感を得る・・まぁそのための「意識という道具」の使い方を、人々は昔からエロヒムが教えてくれた瞑想といったシステムを通して学んできたわけなんですね。

そこでの大切なポイントというのは、まず一人一人が喜び・幸福感を“実感”によって知らなければならないということ・・。最初に『楽しいなぁ~、気持ちいいなぁ~、幸福だなぁ~』といった実感が素直にあって、その感動を慈悲・愛のエネルギーが支えていく・・。

この慈悲・愛エネルギーによって瞑想全般が支えられ、システムが進んでいくわけです。つまり、五感によって快楽を実感する体と心のすべて・・それらを受け入れ・理解するということ。そして、そこに"一体感”や"共感”が生まれる・・。

自然に、『あぁ、この幸福を他の人々にも味わって欲しいなぁ・・』 といった心持ちにもなっていくものなんですね。そこで、『(自分だけでなくて)誰もが、皆が幸福に暮らせる社会が一番だなぁ~・・』といったような、云わば幸福の共有とか普遍性といったモノを理解するようになるのね。

まぁそういったわけで、瞑想の基本は考えることよりも、まず“実感”するということにスポットを当てる。いつも五感をフルに使って、そこに注意・意識を向かせておくようにして・・そこから喜びや幸福感といった快楽を引き出すということ・・。

ヒトの目的は、「苦」を味わうことではないわけだからね・・。まぁ「苦」の観察は大切なことだし、その技法の仏教的瞑想のなかで果たす役割は素晴らしく、確かに我々がそこから学ぶ処は多いんだけれども・・。

「苦や痛み」を、あえて求めるヒトはいないわけだからね・・ソチラ嗜好の向きは別にして(笑)・・。「苦」は解かれば、それでいいモノであって、余計な苦は別に味あわなくてもいいモノでしょ。

例えば、我々のなかにある遺伝子レベルでの「苦・楽」のシステムを観察したとしても、それはまず『快楽原則』が基本にあるということです。「苦・楽」の実感というは、光と陰みたいなそういったモノですからね。

これは喜び・快楽を際立たせるためのコントラストであり、エロヒムはそのように我々の設計図を創ったわけですからね。

それに、苦を感じる事によって、『さぁ、ここで知恵を使うんですよ・・』ということを教える警報機の役目があるのも事実ですね。『苦を感じる=ブザーが鳴る・・そこで、あなたの知恵を使いなさい・・』ということです。

まぁここらが、仏教とラエリズムのコンセプトの違いが微妙に出ている処で、光にスポットを当てるのか、闇の部分にスポットを当てるかでね・・。

しかし、ホントは光も闇も、コインの裏と表みたいなもので、結局は両方でひとつなわけでしょ。両方なければ、システムも何も成立しない。

・・確かに、未だ我々はその苦=闇のほうにヤラレっぱなしな処はあるけれど、近い将来はかつてエロヒムがそうであったように、それはヒトの知恵(科学)によって解決されるとは思うわけです。

まぁ、明日のことはともかく肝心なのは「“いま”幸福に生きる」ということですからね・・。とりあえずは初心に帰って、その“いま”を感じることから始めましょうか・・。

・・追記・・苦を“感じる”・・苦しむのは嫌だから、楽になろうとする・・。そこで、この苦を何とかしようとして、知恵が出てくる・・。・・苦がやわらぎ・・苦が無くなっていく・・そして楽を感じる・・更に楽になろうとして、知恵を使う・・。そして、苦の後に知恵を使う・・。更に楽を感じる・・∞・・。

・・昔は洗濯をするにしても、寒い冬に川まで洗濯板一枚もって行って、しもやけの手や足を使ってゴシゴシやったわけなのね。しかし、昔の人間も知恵を使ったわけだから、この苦しみ・痛みを乗り超えてきて、おかげで今は自動洗濯機なんかで楽ができるわけでしょ?

最初は荷車とか馬車しか無かったけれど、もっと楽をしたくて車を発明したわけです。しかし、今は飛行機のほうが車より もっと便利で楽だからね。そういったわけで、我々は知恵を多いに使って、我々を楽にさせてくれるモノをどんどん編み出してきたわけなのね・・。

そもそも、その時に“知恵”ってモノが出てきたというのは、楽になりたいからなわけで、その楽というのも最初に(苦を)“感じた”からというわけなのね。ここで苦と楽のシステムが、うまく働いているといったアンバイ・・。

だから「苦・楽を感じる」・・その二つがないとこのシステムは成立しないのね。仏教では、ここで「苦」にスポットを当てるわけ・・。苦があるからこそ、楽を感じ、ヒトは快楽を求めるんだとね・・。

それどころか『楽があると言うのではなくて、苦は表面には出ていなくても常に内在しているものだ・・。我々は普段はそれを感じていないだけなんだけれど、ある時にその内在する苦が表面に出てきて、苦を感じる・・。

そこで我々はそういった苦しみから次の苦に逃げる・・。それを次から次へと繰り返す・・。ある苦しみから別の苦しみに逃げた時に感じるささやかな感覚を“楽”と云っているにすぎない・・。一切皆苦・・四苦八苦・・我々は常に苦の海にいるんだ・・』といったアンバイなのね。

そうなると、例えば世間で様々なエンターテイメントが多いに求められ、もてはやされているというのも、我々のそういった日常の苦がソモソモそうさせているといったように・・。・・調子に乗って、苦を基調にした仏教的な文化・芸術論に発展していきそうなんだけれども・・。

まぁ、ここでの大事なポイントは「苦を感じる・楽になりたいシステム」があって、その苦をコントロールしたり無くしたりして“楽に生きる”方に導いていくだけの知恵が、もともと我々には有るということなんですね。

これはまさしく、我々は苦を嫌い快楽に向かっていくように仕向けた、エロヒムが創った『苦→知恵→楽』というDNA・設計図どおりの、我々のありのままの姿だと思えないでしょうか?

・・まぁ苦と言っても、この世界には生老病死・あらゆる苦しみがあるわけでしょ。病気や老いや死の他にも、政治・経済や教育・宗教・慣習等々がもたらす色々な苦があるわけだからね。

こういった地球上のあらゆる苦を、すべてをコントロールできて余計な苦しみ痛みが無くなった社会を、つまり『エロヒムの住む世界』をかつて仏陀が「悟りの境地」といったわけなんですね。

これは、いまの仏教で云うような『悟りとは、(個人レベルの)心の苦しみや悩み・痛みあるいは執着が無くなった・・etc・・』といったような、そんな単純なハナシではないのね・・。

たしかに、我々には未だエロヒムほどの知恵や科学技術は無いわけで、いつも色んな「苦」にヤラレているんだけれども

そういった苦を我々が克服・制御して「科学の黄金文明」社会を目指すにしても創るにしても、云えることは我々が生きていく限り、「・・苦と楽を感じる・・」・・それだけは限りなく続いていく・・ということでしょうか・・。

ここで一句

苦も楽も 生死も一切 空のなか