色即是空的こころ・・❼

・・ご案内のように、相変わらず地球では人間たちが貪欲さと怒り、そういった利己的(エゴ)なエネルギーと攻撃心ばかりを使っているものだから、戦争と貧困が止むことは無く、人々はあらゆる苦しみにあえいでいるわけです。

そこで、“ヘビ”はそのような惨状を見かねて、一人の預言者を選び彼らの住む「幸あるところ(『浄土三部経』参照)」を見せたわけです。同時に「四諦八正道」といった『エゴ及び攻撃心対策マニュアル』を伝授します。

しかしその前に、時代の預言者として彼がこれから地球でなすべき活動を容易にさせるためのお約束、まぁこれもひとつの通過儀礼みたいなものなのでしょう。いま考えますと多少荒っぽいのですが、“出家”といった方法ですね。

つまり、誰でも自分が所有していると思っているモノが色々あるわけです。例えば、仏陀は王族ですから家族や国、財産・地位・権力・・etc・・そういった彼の所有物すべてを手離して身軽にしてから、まずスタートラインに立つことになるわけです。

ですから、そもそも“ヘビ”から仏陀に示された「知恵の道」というのは「無所有」といった地点から始まったわけで、当時の修行者の定番“出家”のスタイルから入っていくことになったというわけなんですね・・。

・・まぁそういった経緯があって、仏陀自身はすでに地球にて「無所有」のなんたるかを経験させられたわけです。その後で「所有しない事が幸福につながる」ことを教えられ、実際に所有しない社会=「幸あるところ」を見せられるわけですから、それはずいぶんと感慨深いモノがあったのではないでしょうかね。

たしかに、この出家といったシステムは現在でも南方仏教なんかはで当時の慣習を守って行われているといいますが、当時の時代背景を考えると、在家ですと余計な雑用や色々なシガラミがありますからね。

それにインドでは古くから修行者が托鉢して生きていける環境がありましたから、仏陀自身もそれに倣って出家し、身軽になって布教活動した方が動きやすかったというのも解かるような気がしますね。

それと“ヘビ”からすると、やはり「無所有」を実際に仏陀本人に経験されておくということがポイントになるのでしょうね。とにかく、まずは“無所有感”をあじわう・・実感させるということが大切だったのだと思いますよ。

知恵とか瞑想といったモノは、それをまず“実感”することによって、ジリジリと本物に近づいていくわけですからね。我々は『よく解かりました・・』と言うんだけれど、ほとんどそれは知識として一旦所有しただけで、記憶の在庫をひとつ増やしたくらいなものでしょ。

ですから、実際には実感が希薄なので、なかなか知恵が身に付かない、身に付かないから「慈悲のエネルギー」も出てこない。それゆえ心の深い処までには届いてこないので、『慈悲・愛のエネルギーを使うことがホントの知恵なんだ・・』といった処まで至らないんですね。

そういったわけで、「無所有」を経験しようと思えば、実際に自分が所有しているモノを捨てて、所有していないといった状態を味わうのが一番手っ取り早いわけですよ。まぁ、最初の経験というものは何でも、多少の“痛み”と感じるものです。

それはある程度の痛みを味わうことになるにしても、やはり最初から始めなくてはいけないんですね。多少荒っぽいかもしれませんが、そうしなければ無所有ゆえの執着心が希薄な“ありのまま”でいる心もちも、束縛の無い自由さの快楽も味わうことはできないわけですからね。

それは例えば、「布施」の実践でも同じであって、「三輪空寂」=匿名のプレゼントをするにしても、実際に自分が大切にしているモノを見知らぬヒトに差し出さなければ、それによって相手が喜び、その喜びが自分の喜びになる、そういった幸福感を味わうことはできないわけですからね。

昔の出家というシステムには、そういったことをあえて実感させるといった意味合いもあったのではないかと思いますよ。・・まぁとにかく「観照の作法」といっても、そこでヒトの心と体を動かすために使われるエネルギーというモノは「慈悲・愛のエネルギー(以下;慈悲エネ)」ですからね。

空(無限)の知恵を知り、それを日常で実践するということは必然的にこのエネルギーを使うわけですからね。ご案内の『八正道』のシステムをみても、まず「正見」を学ぶと自然に「正思」になっていくようになっているわけです。

つまりこれは何を言っているのかと云うと、「正見」=空・無限を知り、そこで“無所有”といった「空の知恵」を学び、ヒトがそれを日常のなかで実践しようとするならば、自然に慈悲・エネを使うことになる・・ということなんですね。

まぁ、しかし最初はこの「慈悲・エネ」はなかなか出てこないですから、意識的に絞り出しながらでもこの作法を実践していくわけですが、そのうちにこの作法が段々と身に付いて、「慈悲・エネ」も出てきますからね。

そうなると、別に意識しなくても自然に観照的作法でもって考え・行動するのが当たり前になってくる。つまり、善い“クセ”が身に付くという事ですね。ですから、この作法を実践するにはまず、意識の筋肉を付けなくてはいけないわけです。

ご案内のように“意識”といった道具がありますね「気づく・客観的に観る・観察する」こういったことを無の瞑想などによって、意識の筋肉を付けていくわけです。我々の脳ミソの機能あるいは心の構造上、意識を使わないと中々「慈悲・エネ」が出てくるスイッチが入らないようになっているんですね。

そうでないと、いつもの“クセ”で、この“エネルギー”をほとんど「貪欲・エゴエネルギー(以下;エゴ・エネ)」として使ってしまうことになるでしょう。例えば、晩ご飯のサンマに“おろし”を使おうという事で大根を買おうとする。

そこでスーパーの野菜売り場に行くと、丁度SMLサイズどれでも一本50円のタイムセールをやっていた。そこで、これは安いといったアンバイで、欲張って重くて超デカイヤツを選んで仕入れてきたりするわけなんですね。

しかし一人暮らしで、しかもたいして量も食べないから、しまいに残った大根は冷蔵庫の隅で腐らせてしまうといったことになる。さて、この一連の場面の中で、はたしてどのくらい“意識”という道具を使ったというのでしょうか?

大根の大きさをくらべてみた時点で、自分は一人暮らしで出張が多く留守勝ちだとか、そんなに大食いの胃袋は持っていないとか、コレは一人では大きすぎるので家族向け用に残しておこうとか、そういった「客観的な観方」をしたのかということなんですね。

大根を見た瞬間、無意識に大小を比べ、ただ単にとにかく大きい方がイイからと、「貪欲さ」を前面に押し出して、行動しただけではなかったのかと・・そういったことなんですね、まぁ細かいハナシになりますが・・。

つまり、ごくフツーの日常の場面のなかでも、あるいは仕事の場面でも、我々はいつでもこの調子でこういったエゴ・エネ主導で考え、条件反射的に欲が先行した行動をしてはいないでしょうか。

こういったような「エゴ・エネ」主導ですと、どうしてもズームアップしてその場面を観ることに終始してしまうことになりますからね。そうなると、欲が前面に出てしまうので正しい状況判断も“ぼやけて”しまうし、他人様のことなどは到底考えられなくなるものです。

ですからそこで、まず一歩引いて客観的に観てみるんですね。そうすると客観的スイッチが入って、カメラがズームアウトになりますからね。とにかく客観的スイッチが入ると、広い視野から全体が観れるわけです。

その景色の中には自分だけではなく、自分は全体の一部であって、他にもたくさんのヒトが居るわけです。そこで意識的な判断ができる・・このヒトにはコレ、あのヒトにはアレ・・といったように、“いま”自分は何を選択すべきか明確になりますし、「慈悲エネ」が出てくる状況も出来てくる・・。

結果、自分はSサイズの小さいヤツを買って、おかげで冷蔵庫の中で残りを腐らせないで済むし、残しておいたLサイズのヤツはどこかの大家族の一家団欒にために貢献して喜ばれることになるわけです。

大根に限らず、何かモノゴトを比較・判断する場合においても、我々の持っている意識や欲望といった道具をどのように使うのか・・こういった日常の何気ない場面のなかでも、日頃から実践している「観照の作法」の成果というものが出てくるものなんですね・・。

ここで一句

観ることで 慈悲の心が 強くなり