続々 『無の瞑想』のお話

・・再プログラミングというのは悪いクセをやめて、今度は善いクセを作ってそれを使いましょうということだと思うんですね。ヒトの“クセ”というのは、心の傾向ですから言葉を変えて云うと、性格・人格といったものでしょうね。

まぁ悪いクセというのはご案内の嫉妬・憎しみ・攻撃心・所有グセ・支配欲・悲観・落ち込み・傲慢・・etc・・こういったようなモノはひとつの症状ですから、これらは仏教で云う三毒・・貪欲さと怒りの悪感情、それに無知などに冒された云わば病気ですよ・・ということなんですね。

それが遺伝的なものか後天的なものかは別にして、誰でもそういった悪いクセを多少なりとも持っているわけですから、我々は云わば病人ということになるんですね、自覚しているかいないかは別にして・・。

そこで幸運にも、自分が病気であることに気づいて、この病を治そうと思い一念発起、この病気に出された処方箋を実践することになるわけです。ご案内のように、この処方箋というのは、“ヘビ”から仏陀に渡された『八正道』ですね。

そこで、仏教ではまずこの処方箋に書かれている正見(正しい哲学)である三法印を学ぶんですね。つまり最初は、一つ目の「哲学の門」をくぐるわけです。

ここでは、仏教の三大ポイント「諸行無常(すべては変化すること)」「諸法無我(“わたし”というものは無い)」「一切皆苦(自分の思うようにはならない事)」この三つを学びながら、瞑想のなかでこれらを実感していくわけです。

つまり哲学と瞑想はペアになっていますので、この瞑想によって“哲学を実感”しながら正しいモノの考え方を知る。例えば今までは知らなかったモノの観方や世界観・価値観といった、まぁご案内の「空の知恵」を身に着けていくわけです。

ラエリズムで云えば・・人間は無限の一部であり、その無限の一部であるチリから出来ている・・そういったことを知ることから始まるんですね。まぁ、仏教では本来の「無限=空」といった概念は無いですからね、無限のシッポである「無常・無我」を知る。

まぁ「すべての生命はチリから創られ、またチリにかえっていく・・」こういったラエリズムでの正見(正しい哲学)のシッポの部分を学ぶと云えばよろしいでしょうか。

流れとしては、仏教の三法印の源流にもなっている“無限”のイロハを知る。そして、今度はその無限を実際に実感するための訓練をすることになるわけです。

仏教では禅やヴィッパサナーの技法を使って、無常・無我を実感しながら訓練が進んでいくわけですが、ラエリズムではその訓練システムをひとまとめにして『官能瞑想』と云うんですが、その瞑想法を実践しながら無限を実感していくわけですね。

その『官能瞑想』のなかでの、「意識」に特化したノウハウを「無の瞑想」としてご案内しました。ここで、我々は二つ目の「意識の門」に入るんですね。この瞑想の訓練のなかで「気づき・意識・客観視・観察」といった意識の道具の使い方を覚えていく。

「哲学の門」・「意識の門」をくぐり、無限を知り無限を実感し、その無限から導いてきた知恵、まぁ云わばこの『空の知恵』を学び、それを日常のなかでも実践していく。この実践をしていくなかで、我々には何が必要であり、何が不足しているのかを実感し、気づくようになるんですね。

つまり、暗闇の中をさまよう旅人の足元を照らしてくれる「無限の哲学」といった光に導かれ、進むべき道を示してくれる「意識」といった矢印の通りに進んでいくと、そこには豊かな水と緑あふれるオアシスが見えてくるんです。

そして、そこの看板には 『ようこそ、愛と慈悲の門からお入りください』と書いてあるんですよ。そこで三つめの門「愛・慈悲の門」に入ることになる。

そしてこの門をくぐってはじめて、『人間にはこのエネルギーが必要なんだ!・・』と実感するんですね。仏教徒は仏陀がむかし云ったように『正見から正思が生まれ、そこから知恵が生まれる・・』ということを実感として知ることになるわけです。

我々が一番必要としていて、しかも一番不足している「愛・慈悲」といったエネルギーを使うということが一番の“知恵”であることを知らされるわけです。

更にまた、ラエリアンはラエル氏が云うように『ヒトはチリであること知り、同情心を持つことができる・・』といったことをも実感・検証できるということにもなるんですね。

我々は「慈悲喜捨」でご案内のように、慈しみや同情心、他人の喜びも自分のことのように喜ぶ、そういった心を作っていくためのこの「愛・慈悲」のエネルギーが人間の病気=「悪いクセ」を直すには一番の特効薬であり、このエネルギーを使うことが一番の知恵であることを改めて知らされることになるわけです。

もちろんエロヒムは自分たちが創った人間には何が足りないのか、人間が幸福に生きるためには何が必要なのかを知っているわけですからね。

彼らが時代の預言者をとおしてその時代に生きている人間に必要なものを与えてきたわけだし、その与えてくれるモノというのは時代を超えて人間にとっては、必要なモノだったのだと思います。

同時に、それは無限の過去にも必要とされたモノであり、またこれからもおそらく人間にとっては必要なのでしょうね。無限の時空の中で、永遠に変わりなく使われていくことでしょう・・。

ここで一句

慈悲の門 入ってわかる 知恵の道