又 『無の瞑想』のお話 

・・断食もたまにすると、健康にイイですしね。同じように心の断食も心の健康にはイイわけです。心の断食というのは無闇やたらに“反応”しないということです。『官能瞑想』の「無の瞑想」でおなじみですが、これが心の健康にとっては大切なんですね。

その「無の瞑想」のメリットを挙げるならば①反応しない訓練になっているので、脳のデフラグと五感の向上を図るために良い。②意識を使うので自ずと意識の筋肉を強くする鍛錬になる③集中力がつく④物事を客観的に観る訓練になる・・。

そういったわけですから、これは我々の日常で使う悪いクセといった“反応”ではなく、その場に応じた適切な“行動”をするためのイイ訓練になるんですね。「意識」を鍛え成長させる ためには一石三鳥、四鳥に値する大切な瞑想だと思いますよ。

④の「物事を客観的に観る訓練になる・・」と言いましたが、物事を客観的に観ることを禅では『観照』というんですけれども、客観的に観る技法をおぼえただけでは『観照の作法』を身に付けたとは云わないんですね。

『観照』というのは、云わば禅の卒業試験みたいなモノですから、ご案内の「八正道」をすべて学ばなくてはいけないわけです。「八正道」が基本中の基本ですからね。

まず「八正道」を学んで日常のなかで実践し、結果この「観照の作法」が身に付くわけですから、それまでの道のりはけっこうあるんですね。この作法は、空の哲学を実践し、「無の瞑想」を訓練し意識の使い方をおぼえる、

そのうえで一番大切な「愛・慈悲のエネルギー」を大いに使った、いわば『哲学・意識・慈悲(愛)』この三つ巴でもって訓練されていくものですからね。その訓練の成果がむすばれて、味わうことができる一つの喜び、意識の快楽ですから・・。

そういった観照の作法が身に付きますと、意識のなかでは自他の壁は無いですしね、貪欲さや怒りの悪感情に冒された固定観念・偏見が無い心もちで観ていますから、起きる現象・存在のその“ありのまま”な様子が楽しくなるものなんですね。

だいたい我々は自分の欲望・願望、感情や主観(私的な考え・価値観)をまじえないで、客観的に観てみるなんてことは日常ではあまりやらないんですね。まぁそれでも、我々は子供のころ顕微鏡のなかを胸ときめかせながら覗き込んで観たものです・・

・・この中ではいったい何が観れるんだろうといったアンバイでね。その時は客観的に観ようといった気持だったのではないでしょうかね。ありのままの現象・ホントの姿を観たいわけですからね、何でも観てやろうといった真っ白な気持ですよね。

いま思い返しても、そこで起きている出来事というのは、云わば嘘も隠しも無い真実の世界ですからね。そういった最高の真実のエンターテイメントが目の前で繰り広げられているのを観れるわけですから、これ以上楽しいことはないんですね。

物事の“ありのまま”を、客観的に観る、観察して観るというのは楽しいものなんですよ。ですから観照のための云わば『客観的スイッチ』なるものを一個作っておくと非常にイイものなんですね。

たとえハプニングが起きたとしても、これを押すことでパニくることも無く『まぁ、こんなものですよ・・』みたいにね・・あわてず騒がず偏見無く、物事を平らな心で、落ち着いた心もちで観ることもできるようにもなりますしね。

こういった心境を仏教では『捨・ウペッカー(パーリ語)』ともいうわけです。ご案内の四無量心「慈悲喜捨」の“捨・しゃ”ですね。この捨を使って物事を観るというのを別の表現ですると・・

・・説明がちょっと難しくなるんですが、例えば自分が映画監督にでもなってカメラの中をのぞいて、自分の人生のなかで起きる色んなシーンを撮っているような感じとでもいうのでしょうか。

これは一回こっきりの人生ですので、云わば撮り直しのきかないドキュメンタリーを撮っている感じですかね。もちろん台本も編集も無し、リハーサル無し・ぶっつけ本番の少し変わった映画ですね。

しかも、それには守らなくてはいけないル-ルがあるんですね。その一つは「主観(私的価値観)や感情を入れずに観ること」二つ目は「このようにしたい、このようであって欲しいといった願望を入れない」三つめは「変化を嫌がらない」。

・・つまり、彼にしてみるとカメラのなかの場面のすべてが自分の人生であるにもかかわらず、やる事といえば欲望・感情・主観を入れず、ただひたすらフィルムの中の出来事としてクールに観るだけ・・。

そういったわけですから、いちいち場面ごとに起きる出来事に対してそこにズームアップして、個人の主観的(私的)な感情を入れ込んだりしてみないということです。

冷静にカメラをのぞいて、すべてを物語の一場面として観ていますから、例えば悲しい場面を撮っているからといって、泣きわめいて見ていたりはしないし、自分の気にいらないシーンだからといって『駄目です。ハイ、カット!』は無いんですね。

そんな感じで観ますと、我々の日常で起きる色んな出来事というのは、好いことでも悪いことでも起こるべくして起こる、単なる物語の一場面にすぎないわけです。

そういった場面が一コマ一コマごとに、次から次とめまぐるしく変わっていくだけですからね。幸せな場面でも辛く悲しい場面であっても、長くは続くわけではないですしね・・。

しかし、我々は往々にして日常で起きる出来事その一コマだけをズームアップして見るでしょ。そして重箱の隅をつつくようにして細かい部分まで見て、そこにべったり執着して、善いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか、アアでもないコウでもないと言って大騒ぎするんですね。

そういったように一コマだけの場面を主観的・感情的に見て、それを不幸だとか悲しいだとかというのではなくて、あたかも他人ごとのように一端ズームアウトして離れて、観てみるんですね。

そういった“みかた”をしてみると、例えば近くでみた時にはとてもシリアスで悲しい場面に見えたモノが、まるで別の場面をみる感じがするものなんですね。また、実際にその方がおもしろく観えたりもするものなんです。

カメラをひいて少し遠くから観る。つまりズームアウトにして観る。全体的に観てみる。長い物語の単なる一場面と観る。そうすると、日常で起きるハプニングもおもしろく観えるわけですよ。

世の中、いつ何が起きるかわかりませんからね。我々は、日々の出来事のなかでは目先の出来事にズームアップして見るといったひとつの“クセ”なんですね、何でもかんでも主観的に見て、一喜一憂したりするでしょ。

ですから少しイイことがあるとすぐ舞い上がって調子に乗るし、自分の都合の悪いことが起きると悲観的になり、ガクンと落ち込んだりするんですね・・・中国の故事に「塞翁(さいおう)が馬」といった話があるでしょ

・・大事にしていた馬が逃げてしまって落ち込んでいたら、その馬が別の馬を連れて帰ってきて喜んでいると、今度は一人息子がその馬から落ちて大けがをして嘆き悲しむわけです。

そうしているうちに戦争が起きて、村の若者が徴兵され戦地で全員死んだけれど、落馬して大けがをしたおかげで、息子は戦争に行かなくて助かったと喜ぶわけです・・。

そういったアンバイで、幸も不幸もいつやってくるか分からないわけですよ。我々はたまたま、その時に起きた事が好かったとか悪かったとか、近視眼的に言うんですけれど、ホントは何が幸福か災いなのか分かったものではないんですね。

幸福はいつも、不幸の帽子をかぶってきますからね。逆に、二転三転と「災い転じて福と為す」ばあいもあるわけです。ですから、起きた事を起きた事としてありのままに受け入れ、悪いことが起きてもそれは長くは続かないと思って、そこでカメラを少しズームアウトして引いて観るんですね。

そうすると、どんなに悪いことでもそれを長いドラマの一コマぐらいの場面として観ることができるものなんです。モノ事を“客観的”な目で観てくださいということなんですね。

ズームアップにこだわるのか、少し引いたズームアウトのカメラワークでいくのかね、これも自分の意識を使ったカメラワークしだい。チャーリー・チャップリンがイイことを言っているんですね。

『人生の同じ場面でも、ズームアップして“見る”と悲劇になり、ズームアウトして“観る”とそれは喜劇になる・・』・・ひとはモノの“みかた”ひとつで、幸福になったり不幸になったりするものです。

ここで一句

幸不幸 引いて観るなら 楽しめる